幼馴染が結婚した
夏には子どもが産まれるらしい
その連絡は唐突だった。私のことをそのあだ名で呼ぶ人はほとんどいないから、変な気持ちになった。忘れていた、私のむかしの名前。
そのあだ名で呼ばれると、わたしの記憶は保育園生か小学校低学年に戻る。その時代の友人、先生、教室の床や壁や、水道の蛇口、ネットに入った固形石鹸、声変わりのしていない高く脳に響く声、レゴブロック(子ども向けの大きいほう)の触り心地。
幼い子どもの五感のまま、それらの記憶が保存されているから、その当時の友人が結婚や妊娠といったところで、私はまだどこかおままごとの延長であるような不安定な気持ちになった。
おめでとう、会いに行くね
産まれる前に一度、産まれた後にも会いたいな
おままごとをするのは久しぶりだった。親戚の子どもに付き合って与えられた役をはいはいと適当にやり過ごすのではなく、自らがその世界の真ん中になってどっぷりとその世界に浸るごっこ遊びだった。
女友達といつも言い合っていた、誰が一番はやく結婚するかな、とか、はやく子ども産んでよ〜、とか。それを永遠と続けていたかった。
つまりは、誰も結婚せず、誰も子どもを産まず、いつまでも自分たちが子どものまま、理想を語り合うだけでいたかった。
夢が現実になる瞬間は、怖い。それがどれだけ良いものであったとしても、期待や理想を超えるものであったとしても、やはり怖い。現実になってしまったら、もうその夢は見れない。次の夢を、例えば子どもにはこの習い事をさせたいとか、子育てが終わったらあれがしたいとか、そういう夢を見ることになる。子どもが産まれてしまったら、子どもを育ててしまったら、子どもを産み育てる夢はもう見れなくなってしまう。
でも、やっぱり嬉しいよ
彼女はその夢を見れなくなるけれど、私も彼女に夢の話ができなくなるけれど、自分の幸福よりも、他人に幸福をわけてもらったときのほうが、手放しで喜べるし、おめでとうと素直に言える。幸せと笑っている彼女が現実にいるなら、夢の話なんてしなくても充分だと思う。
三歳から今まで、彼女と関係を築けてこれてよかった
私は今、誰よりも嬉しい
いつも一生懸命で泣き虫だった私の幼馴染へ
おめでとう!
あなたの幸せをいつまでも祈っています